聖書の読み方

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使徒会議の意義(1)

(前回の記事は、こちら

 

今回からのメルマガでは、新約聖書の「使徒会議」についての解説です。

 

 1.使徒会議とは?


 今回からは、新約聖書使徒行伝という所にある、「使徒会議」についての
解説をしようと思います。
 別名エルサレム会議とも、呼ばれます。

 使徒会議とは、使徒行伝の15章1節ー29節に記されている会議で、
これは使徒(キリストの直弟子のこと)と長老たちによって、開催された会議のことです。
 AD49年頃のことだと、言われています。
 ですが、そもそも「使徒会議」という言葉自体、あまり聞き馴染みが無いかもしれませんね。
 ではなぜ、今回このテーマで解説するのかというと、
この会議が、その後のキリスト教の方向性を決める、重要な会議だったからなんです。

 

 2.使徒会議の背景


 さてキリスト教は、もともとユダヤ人の宗教である、ユダヤ教が母胎となった宗教です。
 そこでキリスト教も、当初はユダヤ人から入信する人々が大多数でしたが、
キリスト教が広まっていくにつれ、異邦人(ユダヤ人ではない人達)からキリスト教に入信する人たちも増えていきました。
 すると一つの大きな問題が、起こります。
 
 さて先程、キリスト教ユダヤ教が母胎となっていると解説しました。
 そしてそのユダヤ教では、(旧約聖書に由来する)様々な戒律が
規定されています。
 これを、律法と呼びます。
 キリスト教の初期に問題となったのは、この異邦人からキリスト教に入信した人々が、
この律法を(どこまで)守るかということでした。
 特に問題となったのは、割礼という儀式でした。

 割礼とは、あまり聞き馴染みがないかも知れませんが、これはユダヤ教の男性が生後8日目に、男性器の包皮の一部を切り取るという儀式です。
 これはユダヤ教に入る上で、重要な(必須の)儀式です。
 異邦人からキリスト教に入った人々も、やはりユダヤ人と同様に、割礼を受けるべきではないか。
 当時、保守的な人々の中には、そのように主張する人もいたようです。

 次回に続きます。

 

 (2024年3月27日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

なぜイエスはキリストと呼ばれているのか?(15)

前回に引き続き、キリストの意味についての解説です。

 

 19.終わりに


 さて今回までのメルマガでは、キリストとは何かについての
解説でした。
 いかがだったでしょうか?
 キリスト教では、旧約聖書新約聖書を問わず、キリスト(旧約ではメシア)という存在は、
とても重要です。
 「キリスト」教というくらいですからね。
 とはいえ、そもそもキリストとは何なのか?
 改めてそう問われると、いまいち何のことはよくわからないという人も
いるのではないでしょうか?
 
 旧約聖書の中では、王や祭司、あるいは救い主を意味する言葉として、
キリストという言葉が使われています。
 そして新約聖書でも、本質的にはおんなじです。
 ですが新約聖書では、イエス・キリストという人物を、旧約聖書によって予告していたメシアと
みなしています。
  そのあたりの意味を、今回は少し解説をしたつもりです。

 今回のメルマガでは、後半は抽象的な話が多くなってしまって、少しわかりにくかったかもしれません。
 次回からは、新約聖書使徒行伝にある、「使徒会議」というテーマで、
解説をしていきます。
 
 今回のテーマは、これでおしまいです。

 

 (次回の記事は、こちら

 

   発行人 neutral613

 

  (2024年3月24日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

なぜイエスはキリストと呼ばれているのか?(14)

 前回に引き続き、キリストの意味についての解説です。

 

 17.イエスは、何の救済者だったのか?


 旧約聖書では、イスラエルの王や祭司たちに対して、キリスト(メシア)という称号が与えられていました。
 しかし、キリストとよばれていたのは、それだけではありません。
 ユダヤ人に対する解放者(救済者)とみなされた人物も、
メシアだとよばれていました。
 ですが、これまでの解説の通り、新約聖書イエス・キリストは、一見イスラエルの救済者とは思えません。
 しかし新約聖書はイエスを、キリスト(救済者)だとみなしているのです。
 一体、何故でしょうか?

 

 18.(理由その5)イエスは、人間の内面の問題(罪)から解放する救済者だから

 なぜ新約聖書では、イエスをキリスト(救済者)だとみなしているのか?
 それは彼が、人間の内面の問題、つまり「罪」から解放する救済者だと、
みなしているからです。

 

 「彼は、私達の罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」
 (ヨハネの第一の手紙2章2節)


 
 ここには、イエスが人間を「罪」から救う救済者だという記述がみられます。
 それも単にイスラエル民族のためではなく、広く全人類のための救済者であるという
考え方も現れています。

 罪というのは、言ってみれば、内面的な問題ですね。
 だから、イエスのいう救いというのは、どこか抽象的なものでもあります。
 だからでしょうか、新約時代の一般のユダヤ人たちは、
エスがキリスト(メシア)だと、なかなか信じられなかったようです。
 もっとも、イエスの真意を理解できなかったのは、ユダヤ人の人々だけではなく、
エスの弟子たちだって同様でした。
 
 まとめると、イエスが(人間の霊的な問題である)罪から解放する救済者だから、
新約聖書は彼をキリスト(救い主)だとみなしているわけですね。

 次回に続きます。

 

 (2024年3月20日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

なぜイエスはキリストと呼ばれているのか?(13)

 前回に引き続き、キリストの意味についての解説です。

 

 16.(理由その3)神との契約が更新されたから


 さて、イエスがキリストである3つ目の理由。
 それは神との契約が、そもそも更新されているからです。
 この神との契約が更新されたという考え方は、つまるところキリスト教にとって決定的に重要です。
 これについては、前回引用したヘブル人への手紙の中で、かなり組織的に解説がなされています。
 ですが、ここではかなり省略をして解説をしたいと思います。

 

 「祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。」
 (ヘブル人への手紙7章12節ー13節)

 

 いきなり何のことかよくわからないとは思いますが、少し解説をします。
 さて祭司制というのは、旧約聖書の律法にある祭司制度で、ここには様々な規定がありました。
 その中に祭司となるのは、レビ族という部族に限るという規定がされています。
 ところで、ここで詳しく解説はしませんが、このヘブル人への手紙の著者は、
旧約聖書の祭司制が、すでに変更されて、別の契約(これを新約というのですが)に移行していると、
主張します。
 そして、この別の契約で祭司として務めをしているのが、イエスだというわけです。

 

 「しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変わらない祭司の務を持ち続けておられるのである。」
 (ヘブル人への手紙7章24節)

 

 いかがでしょうか?
 かなり抽象的な話が続いたので、いまいちよく分からなかったかもしれません。
 つまり、旧約聖書の契約が、更新されて、別の契約(新約)に移行して、
 その契約のもとで祭司であるのがキリストだというわけです。
 このヘブル人への手紙については、いずれもう少し詳しく解説をしたいと思います。

 次回に続きます。
 
 発行人 neutral613

 

 (2024年3月17日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

なぜイエスはキリストと呼ばれているのか?(12)

 前回に引き続き、キリストの意味についての解説です。

 

 15.(理由その2)イエスはあの世(天上)の祭司だから


 新約聖書が、イエスをキリスト(メシア)とみなしている、二番目の理由。
 それは、イエスが祭司(大祭司)だということです。
 確かに旧約聖書では、神に仕える祭司のまた、キリスト(メシア)と呼ばれていたのでした。
 ですが、これまで解説してきたように、イエスは一見すると、イスラエルの祭司となる資格のない人物です。

 旧約聖書によれば、イスラエルの祭司となってよいのは、
イスラエル民族のなかでも、レビ族という部族のみでした。
 それに対してイエスは、ユダ族という部族の出身です。
 なので、そのままでは、彼はイスラエルの祭司となることができません。
 ですが新約聖書はイエスの事を、イスラエルの祭司でもあったと言っています。
 それは、一体何故でしょうか?

 それはイエスがこの世の祭司ではなく、あの世(天上)の祭司として、
職務を果たしているからです。
 新約聖書のヘブル人への手紙という箇所には、次のように書いてあります。

 

 「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。」
 (ヘブル人への手紙4章14節)

 

 ここには、イエスが「大祭司」と呼ばれてますね。
 また別の箇所には、

 

 「以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、人間によらず主によって設けられた神の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。」
 (ヘブル人への手紙8章1節ー2節)

 

 とも書いてあります。「天にあって」と書いてあります。
いわばあの世(天上)のことです。

 さて祭司とは神と人間の間に立ち、両者を仲介する人のことです。
 旧約聖書の時代には、祭司は様々な儀式を執り行い、
 イスラエルの民の罪をとりなす役割を担っていました。
 そして新約時代も、本質的には同様です。
 ただイエスの場合、この世ではなくあの世(天上)の祭司として、人間と神の間をとりなしている。
 そう考えれば、イエスはキリスト(祭司)であるといっても、
矛盾はしないことになりますね。

 次回に続きます。

 

 (2024年3月13日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

なぜイエスはキリストと呼ばれているのか?(11)

 前回に引き続き、キリストの意味についての解説です。

 

 14.(理由その1)イエスは、この世の王ではなかったから


 さて新約聖書が、イエスをキリスト(メシア)だとみなしている理由のひとつ。
それは、イエスが王だからです。
 ですがこれまでの解説のとおり、イエスイスラエルの王として、
即位したという事実はありません。
 しかし新約聖書では、イエスは「イスラエルの王」だと主張しています。
 それは、なぜでしょうか?

 それはイエスが、この世の王ではなく、あの世(天上)の王だからです。
 お分かりでしょうか?
 そう解釈をすれば、別にこの世で王として即位していなくても、イエスはキリスト(王)だといっても、辻褄は合いますね。
 では、もう少し詳しく解説をしていきましょう。

 以前の解説(第86回の解説)では、旧約聖書詩篇110篇という所を引用しました。
 その中に、次のような記述があります。

 

 「主はわが主に言われる、
 『わたしがあなたのもろもろの敵を
  あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ』と。」
 (詩篇110篇1篇)

 

 これは、キリスト(メシア)が、イスラエルの王として、王位に就くことを、預言した箇所です。
 そして新約聖書の中に、この箇所が引用されている場面があります。
 
 「それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。
  (中略)
  ダビデが天に上ったのではない、彼自身こう言っている、
  『主はわが主に仰せになった、
   あなたの敵をあなたの足台にするまでは、
   わたしの右に座していなさい』。」
 (使徒行伝2章33節ー35節)
 
 この箇所では、さきの旧約聖書の部分を引用していますね。
 これはイエスが、神の右(神の王的な権威)についたときのこととして、
引用しているわけです。
 つまり、王位についたというのとだいたい同じです。
 だからこの箇所は、天上で王位についたイエスのことを、語っていると考えてもいいと思います。

  つまりイエスは、天上の王(キリスト)であって、この世の王ではなかった。
 そう考えてみると、別にこの世のイスラエルの王ではなくても、
旧約聖書の記述と矛盾はしないことになりますね。

 次回に続きます。

 

 (2024年3月10日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

なぜイエスはキリストと呼ばれているのか?(10)

 前回に引き続き、キリストの意味についての解説です。

 

 13.なぜイエスはキリストと呼ばれているのか?


 さて前回までのメルマガでは、旧約聖書では、キリスト(メシア)とはどんな存在だったのか、
そして新約聖書イエス・キリストは、一見旧約聖書キリスト像とは一致しないことを、解説しました。
 繰り返しになりますが、旧約時代にはイスラエルの王や祭司、そして(イスラエルの)救済者に対して
与えられる称号こそ、キリスト(メシア)でした。
 そして新約時代も基本的には、旧約時代と同様です。
 ですがイエスはそのままでは、キリストと呼ばれる要素がないように思えます。

 なぜなら、

 1.イエスが、イスラエルの王ではなく、
 2,また、祭司でもなく、
 3.イスラエルの政治的な救済者(メシア)

でもなかったからです。

 しかし新約聖書では至る所にイエスがキリスト、つまりメシアであったと書いてあります。
 例えば、

 

 「そこでイエスは彼らに尋ねられた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。ペテロが答えて言った、『あなたこそキリストです』。」
 (マルコによる福音書8章29節)

 

 「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである。」
 (使徒行伝2章36節)

 

 「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生まれた者である。」
 (ヨハネの第一の手紙5章1章)

 

 などです。
 いかがでしょうか?
 このように新約聖書ではイエスがキリスト、つまりメシアだったということが、
その一貫した主張となっています。
 それでは、一見旧約聖書のメシア像とは異なる、このナザレのイエスを、
なぜ新約聖書ではキリスト、つまりメシアだとみなしているのでしょうか?

 次回に続きます。

 

 (2024年3月6日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

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