聖書の読み方

メルマガのバックナンバーを掲載してます 更新は毎週水曜日と日曜日です

ヘブル人への手紙の意味(1)

(前回の記事は、こちら

 

今回からのメルマガのテーマは、新約聖書の「ヘブル人への手紙」です。

 

 1.ヘブル人への手紙とは?
 前回までのメルマガでは、因果応報についての聖書の見方について
解説してきました。
 今回からは、新約聖書に収録されている「ヘブル人への手紙」という書簡を、
解説していきます。


 この書簡ですが、差出人が不明であることから、
著者は不明ということになっています。
 このヘブル人への手紙、とても重要な書簡の一つなんですが、
正直に言うと、内容が抽象的です。
 それなので、若干わかりにくいです。
 ですが、新約聖書の中でもとても重要な箇所なので、
できる限りわかりやすく、ゆっくりと解説をしていきます。

 

 2.この書簡の主題
 さてこのヘブル人への手紙は、旧約聖書の様々な儀式や戒律などを引用しつつ、
それがキリストによって、どのように成就したのかを、
論証しようとしている書簡です。
 また、大祭司としてのキリストというテーマを強調するのも、
特徴です。 


 それゆえに、多少アクロバティックな論証も使いつつ、
旧約時代におぼろげに記されていた救済を、
イエス・キリストがどのような形で成就したのかを、
示すのが、この書簡のテーマです。

 では次回からは、この手紙を引用しつつ、
解説をしていくことにしましょう。

 次回に続きます。

 

 (2024年5月15日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

因果応報という考え方の問題点(9)

前回に引き続き、因果応報という考え方の問題についての解説です。

 

 9.これまでのまとめ
 さて、今回までのメルマガでは、因果応報という考え方に関する、
聖書の箇所を取り上げてきました。
 いかがだったでしょうか?
 因果応報(あるいは応報思想)というのは、
それ自体は、悪いものではありません。
 善人は良い報いを、そして悪人が悪い報いを受けるというのは、
確かに間違いとは言えません。
 
 ですが現実の世の中は、必ずしもそのようにはなっていませんよね。
 このことは、特に説明は不要だと思います。
 善人がきちんと良い報いを受けて、悪人は彼らにふさわしい悪い報いを受ける。
 もしそうであれば、それにこしたことはありません。
 しかし残念ながら、世の中は必ずしも、
そのようには、なっていません。
 
 ある人が災難が訪れるのは、必ずしもその人の悪行の結果ではありません。
 それは例えば地震などの自然災害、または予期しない不幸に直面した人達に対しても、
当てはまることです。
 これは、旧約聖書の「伝道の書」や、福音書のイエスの言葉にも、
示唆されているのでは、ないでしょうか?

 

 (次回の記事は、こちら

 

 (2024年5月12日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

因果応報という考え方の問題点(8)

前回に引き続き、因果応報という考え方の問題についての解説です。

 

 8.新約聖書の場合(3)
 さて前回は、ルカによる福音書から、
エスが応報思想について、どのように捉えているかを、
みてきました。
 今回は、その続きです。
 前回(ルカ13:1−3)に続く場面で、彼は次のように語ります。

 

 「また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの一八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。」
 (ルカによる福音書13章4節ー5節)

 

 ここには、シロアムの塔の事故のことが、言及されています。
 この事故は、聖書のこの箇所にしか現れない話ですが、
この事故では、18人が犠牲になったと書かれてあります。
 そこで、イエスは次のように問います。
 果たして、このシロアムの塔の事故の犠牲者は、
他の人々より、罪が深かったので、
そんな目にあったのだろうかと。
 彼らに、何か落ち度があったから、そんな災難に見舞われてしまったのか?
 彼は言います。

 

 「あなたがたに言うが、そうではない。」
 (同上5節)

 

 そんなことはないと、彼は言います。
 彼らがそんな出来事に見舞われたのは、
決して彼らが他の人達より罪人だったではない。
 ただ、たまたま犠牲になっただけなのだ。
 そう、彼は言っているようですね。
 
 次回に続きます。

 

 (2024年5月8日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

因果応報という考え方の問題点(7)

前回に引き続き、因果応報という考え方の問題についての解説です。

 

 7.新約聖書の場合(2)
 さて前回に続き、新約聖書から因果応報についての考え方を
見ていくことにしましょう。
 今回引用するのは、ルカによる福音書からです。

 

 「ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。」
 (ルカによる福音書13章1節)
 
 ここにピラトという人物の名が、出てきますね。
 彼はユダヤ総督の、5代目にあたる人物です。
 当時のイスラエルは、ローマ帝国支配下にあったので、
彼のような人物をローマは派遣していたわけです。
 福音書には、「ピラトがガリラヤ人達の血をながし」とありますが、
ピラトは、ユダヤ人に対しては一般に高圧的で、しばしば人々を処刑していたようなので、
この人達も、そのとばっちりを受けた人かもしれません。
 この話を聞いた時、イエスは次のように答えたといいます。

 

 「そこでイエスは答えて言われた、『それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。』」
 (ルカによる福音書13章2節ー3節)

 

 これが、彼の答えでした。
 このガリラヤ人の人々が、どのような経緯でそのような目に会ったのかは、
分かりません。
が、イエスは彼らがそのような目にあったのは、
決して彼ら自身に、何か落ち度があったからとは言いません。
 わたしたちは、誰かが災難に会ったり、不幸な出来事があると、
どこかでその人に悪い所があったから、
その報いを受けたに違いないと、考えてしまうことがあります。 
 (えてして、宗教というのはそういうものですが)

 

 しかしイエスは、彼らがそのような災難に遭ったのは、
決して彼らが他の人より罪人だったからではない。
 むしろたまたまそういう目にあったにすぎないのだ。
そう語っているようにも、思えますね。
 
 次回に続きます。

 

 (2024年5月5日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

因果応報という考え方の問題点(6)

前回に引き続き、因果応報という考え方の問題についての解説です。

 

 6.新約聖書の場合(1)
 さて前回までのメルマガでは、主に旧約聖書から、
因果応報を聖書がどのように捉えているかについて、
解説してきました。
 今回からは、新約からこの問題を見てみることにしましょう。

 新約聖書の中では、福音書の中に、
この問題について示唆している箇所があります。
 それは、ヨハネ福音書にある記事です。
あるとき、イエスが弟子たちと一緒にいた時、
生まれつき目の見えない人物と出会います。
 その時、イエスの弟子たちは、彼に次のように尋ねます。

 

 「イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。」
 (ヨハネによる福音書9章1節ー2節)

 

  イエスの弟子たちもまた、人間の病気や不幸というのは、当人の罪の結果であって、
それに対する神からの罰なのだ、
そのように考えていたフシがありますね。
 これは、因果応報(応報思想)につながる考え方です。
 ですがイエスは、彼らに次のように答えています。

 

 「イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。』」
 (ヨハネによる福音書9章3節)

 

 この中でイエスは、彼の目が見えないのは、本人が罪を犯したためではなく,
また彼の両親のせいでもない、と明言しています。
 こうした応報思想に対しては、
あくまでそうではないと、
彼は言っているようですね。
 
 次回に続きます。

 

 (2024年5月1日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

因果応報という考え方の問題点(5)

前回に引き続き、因果応報という考え方の問題についての解説です。

 

 5.エゼキエル書の中の記述
 さて、こうした「親の因果が子供に報い」という思想を、
批判的に捉えているのは、旧約聖書の他にもあります。
 例えば、旧約聖書エゼキエル書を、引用してみると、
 
 「あなたがたがイスラエルの地について、このことわざを用い、『父たちが、酸いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく』というのはどんなわけか。主なる神は言われる。わたしは生きている、あなたがたは再びイスラエルでこのことわざを用いることはない。見よ、すべての魂はわたしのものである。父の魂も子の魂もわたしのものである。罪を犯した魂は必ず死ぬ。」
 (エゼキエル書18章2節ー4節)

 

 と書いてあります。
 これはエレミヤ書という所にも、似たような言葉が書かれてあります。
エレミヤ書31章29節)
 ここには、「父たちが、酸いぶどうを食べれば、子供の歯がうく」という、いわば格言が書かれてあります。
 いわば、父親のしたことの因果が、子供に向かうのだという意味ですね。

 

 しかし旧約聖書では、このような考え方に対して、
あくまで父親の罪を負うべきなのは、父親自身であり、
その子供まで責任を負わせるのは、誤りであるといいます。
 これは子供の場合も同様で、子供の罪を負うべきなのは、あくまでその子供自身であって、
その親にまで責任を負わせるべきではないと
書いてあります。


 そうした連帯責任を負わせることは、誤りである。
 つまりそういった事が、
書かれてあるということですね。

 次回に続きます。

 

 (2024年4月28日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

因果応報という考え方の問題点(4)

前回に引き続き、因果応報という考え方の問題についての解説です。

 

 4.親の罪を子供が負う必要はない

 さて旧約聖書の中には、「父の罪を子に報いる」という考え方がありました。
 ですがその一方で、両親のゆえに子供をさばくのは誤りで、同時に子供のゆえに両親をさばくのも
また間違いだという記述も、みることができます。
 これは、旧約聖書申命記という所にある言葉ですが、

 

 「父は子のゆえに殺さるべきではない。子は父のゆえに殺さるべきではない。おのおの自分の罪のゆえに殺さるべきである。」
 (申命記24章16節)

 

 と書いてあります。
 ここには、親の罪の責任をその子供に負わせてはならず、また子供の罪の責任をその親が背負う必要はないと
はっきりと書かれてあります。
 これはある意味、画期的な考え方です。
 私達はえてして、誰かが悪いことをすれば、

 

 「あんな事をする人間の、親の顔が見てみたいものだ。」

 

と思ったりするものです。
 また、誰かが悪いことをした場合、彼の子供、あるいは親戚までも、
変な色眼鏡で見てしまうということは、よくあるのではないでしょうか?
 これは、因果応報とは少し違いますが、そういったことは、
よくあるものです。
 ですが、そうした考え方に棹さすのが、この聖書の記述なのではないでしょうか?

 確かに、親の養育態度が、子供の成長に影響を与えることは、否定できません。
 ですがだからといって、子供のやったことだから、その責任をすべて親が背負う必要は、ないはずです。
 いくら親子でも、あくまで別の人格ですからね。
 
 次回に続きます。

 

 (2024年4月24日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)