聖書の読み方

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因果応報という考え方の問題点(3)

前回に引き続き、因果応報という考え方の問題についての解説です。

 3.旧約聖書の場合(続き)


 さて旧約聖書の中には、善人は良い報いを受け、悪人は悪い報いを受けるという、
(因果応報の)考え方があります。
 ですが、旧約聖書の中には、
単純にそうだとは言い切れない所があります。
 特に旧約聖書の「伝道の書」には、そうした応報思想に棹さす記述を、
はっきり見てとる事ができます。
 伝道の書については、以前にも解説をしましたので、
ここではあまり詳しくは取り上げません。
 ですが例えば、

 

 「地の上に空な事が行われている。すなわち、義人であって、悪人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。また、悪人であって、義人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。私は言った、これもまた空であると。」
 (伝道の書8章14節)

 

 といった言葉が記されています。
 ここには正しい人なのに、(本来悪人が受けるはずの)悪い報いを受けている事もあれば、悪人なのに良い報いを受ける人もいて、
それもまた空しいことだと、語られています。
 正しい人間だからといって、必ずしもその報いを受けるわけではなく、逆もまた然り。
 つまりこの世は、因果応報には必ずしもなってはいない。
 そのように語っているようにも思えますね。

 

 「すべての人に臨むところは、みな同様である。正しい者にも正しくない者にも、善良な者にも悪い者にも、清い者にも汚れた者にも、犠牲をささげる者にも、犠牲をささげない者にも、その臨むところは同様である。」
 (伝道の書9章2節)

 

 正しく生きていても、そうでなくとも、所詮はどちらも同じ事が起こるにすぎない。
 そのように語っているようです。
 だからと言って、正しくあることが、無意味だというわけではありません。
 
 ですが少なくとも、この世にいる限り、正しい人間だからといって、必ずしもそれにふさわしい報いを受けるとはいえない。
 伝道の書は、そのように語っているようにも思えますね。

 次回に続きます。

 

 (2024年4月21日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

因果応報という考え方の問題点(2)

前回に引き続き、因果応報という考えかたの問題についての解説です。

 

 2.旧約聖書の場合


 ではまず旧約聖書から、見てみることにしましょう。
 旧約聖書の中には、神に従う人には神からの祝福があって、
逆に神に逆らう人間には、神の裁きがあるという記述を、
みることができます。
 たとえば、出エジプト記を読むと、

 

 「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」
 (出エジプト記20章5節後半ー6節)
 
 という記述があります。
 これは、十戒の中にある文言ですが、
ここを読んでみても、「神を愛する者には千代の恵みを、そして神を憎む者には、子孫の3,4代まで報いを与える」
とはっきりと書かれてあります。
 他にも詩篇には、

 

 「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、
  正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が
  食物を請いあるくのを見たことがない。」
  (詩篇37篇25節)

 

 という記述もあります。
 ここには、正しい人はその子孫までも、
食物に事欠くような状態に陥ることなどはない、
そう書かれてあります。
 こうした所を読んでみると、神に従う人間は祝福を受けて、従わない者はその報いを受けるという
考え方が、見られることは明らかですね。
 応報思想とでも、言えばいいのでしょうか?
   
 こういった箇所を読んでいると、
聖書は、一般に因果応報(応報思想)について、
肯定的に捉えているようにも思えますね。
 正しい人間は、それにふさわしい良い報いを神から受ける、
反対に悪しき人間は、彼の行いにふさわしい(悪しき)報いを受けるのだ。
 聖書は、そのように語っているようにも、思えますね。

 ですが聖書をよく読むと、必ずしもそうとは言い切れないのではないかと
思える箇所があります。
 これは、旧約聖書の場合も同様です。

 次回に続きます。

 

 (2024年4月17日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

因果応報という考え方の問題点(1)

(前回の記事は、こちら

 

今回からは、因果応報という考え方について解説をします。

 

 1.因果応報とは?
 さて、今回からのメルマガのテーマは、
 「因果応報」
についてです。
 これは、よく聞く言葉ではありますよね。
 ですが、そもそも因果応報とは、一体なんでしょうか?
 ネットで調べたところ、因果応報とは、

 「人はよい行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば、悪い報いがある」

 という考え方だそうです。


 一見すると、これはもっともな事に思えますね。
 誰しも良いことをすれば、それに応じた良い報いが得られ、
逆に悪いことばかりしていれば、それにともなった悪い報いを受ける。
 これは、もっともなことだと言えます。
 それに、えてして宗教というものは、こういった考え方を好むもので、
 キリスト教にもこういった考え方は、
あるような気がします。

 

 ですが、これは本当にそうだと言い切れるのでしょうか?
 私達のこれまでの人生経験でも、
正しく行きていたはずの人間が、必ずしも良い報いを受けているとは言えず、
 むしろ不幸になっているような人も、いるような気がします。
 これは逆もまた真であって、
悪い人間のはずなのに、なぜか大手を振って歩いていて、彼らにふさわしいはずの報いを
受けていないような気がしてしまう。
 こうしたことは、私達もしばしば目にします。

 それでは、この問題のことを、
聖書は、どのように捉えているのでしょうか?
 今回のメルマガは、これがテーマです。

 次回に続きます。

 

 (2024年4月14日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

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使徒会議の意義(5)

前回に引き続き、新約聖書使徒会議についての解説です。

 6.使徒会議がもたらしたもの


 さて今回まで解説をしたこの使徒会議は、
言ってみれば、その後のキリスト教の方向性を決めた、
重要な会議でした。
 もともとキリスト教は、ユダヤ教が母胎となった宗教です。
 そしてユダヤ教の教典であった旧約聖書には、
様々な戒律が記されていました。
 この戒律を守ることこそ、ユダヤ教では何より大切なことでした。

 

 ですがキリスト教では、イエス・キリストに対する信仰を、重視します。
 ユダヤ人であるか、異邦人であるかは重要ではなく、あくまで「信仰」によって人間は救われるというのが、
キリスト教の立場です。
 もしそうであれば、異邦人からキリスト教に入信した場合、
もはや旧約聖書の戒律を、文字通り守る必要性は、
なくなります。

 あと正直な所、この旧約聖書の戒律を、異邦人にまで守らせようとすれば、
キリスト教に入信する敷居が、かなり高くなってしまうことは、
否定できません。
 特に割礼などは、その主たるものですね。
 (もっとも、旧約聖書の律法を今もきちんと守っているユダヤ人は、
えらいなあと、私などは正直尊敬していますが。)

 

 このようにキリスト教は、ユダヤ教と同様、旧約聖書を彼らの教典として受け継いた一方、
その戒律を必ずしも尊守する必要は無いという考え方に立ちました。
これは、その後のキリスト教が発展していく上で、重要なことだったと言えます。
 その事が明白になったという所に、今回の「使徒会議」の意義が、
あったのだといえますね。
 
 使徒会議についての解説は、今回でおしまいです。

 

 (次回の記事は、こちら

 

 (2024年4月10日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

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使徒会議の意義(4)

前回に引き続き、新約聖書使徒会議についての解説です。

 

 5.異邦人に律法を押し付けない


 前回解説したように、この会議では異邦人に対しては、
割礼を含む旧約聖書の戒律を、字義通りには守らせる必要はないという方向へ、
進みました。
 そして会議の中で、ヤコブという弟子(彼はイエスの実の弟です)が、この点に念を押すように、
旧約聖書の次の箇所を引用しました。

 

 「その後、わたしは帰ってきて、
  倒れたダビデの幕屋を建てかえ、
  くずれた箇所を修理し、
  それを立て直そう。  
  残っていうる人々も、
  わたしの名を唱えているすべての異邦人も、
  主を尋ね求めるようになるためである。」
  (使徒行伝15章16節ー17節、アモス書9章11節ー12節)

 

 これは、旧約聖書アモス書という箇所からの引用です。
 もっとも、この箇所では70人訳という、ギリシャ語訳の聖書を引用しているようなので、
ヘブライ語旧約聖書(現在はこちらから翻訳されている)の文言とは、
少し異なるかもしれません。
 ここでは、「わたしの名を唱えているすべての異邦人も、主を尋ね求めるようになる」
とありますね。
 キリストを信じている異邦人は、ユダヤ人と全く同様に、
神の救いを受けている。

 

 「そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。」
 (使徒行伝15章19節)

 

 そうである以上、もはやユダヤ人と同様の戒律を、異邦人が守る必要は無い。
 それが、新約聖書キリスト教)の立場です。
 
 この後、この会議では、異邦人が守るべき事柄(使徒行伝15章20節、同29節)を指示し、
それ以外の点では旧約聖書の戒律を、字義通り守る必要はないという結論に
達しました。

 次回に続きます。

 

 (2024年4月7日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

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使徒会議の意義(3)

前回に引き続き、新約聖書使徒会議についての解説です。

 

 4.エルサレムでの会議


 さて前回の解説のとおり、(パウロバルナバといった)当時の主な弟子たちは、
この問題について協議するために、エルサレムに集まりました。

 

 「そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議をするために集まった。」
 (使徒行伝15章6節)

 

 ここで問題となったのは、
キリスト教に改宗した異邦人が、どこまで旧約聖書の戒律を
守るべきかということでした。
 とくに保守的な人々は、あくまで異邦人もユダヤ人と同様、旧約聖書の戒律を重んじるべきだと言います。
 特に、前回解説をした割礼を、彼らは重視していました。
 議論が一巡した後、使徒の筆頭だったペテロという弟子が、次のように語ります。

 

 「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。」
 (使徒行伝15章7節後半)

 

 「しかるに、諸君はなぜ、今われわれの祖先もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である。」
 (使徒行伝15章10節ー11節)

 

 繰り返しになってしまいますが、(ペテロを初めとした)当時の教会の指導者たちは、それまでの経験から、
 人間が救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰によるのであって、
 単に律法(旧約聖書の戒律)を字義通り守ることではない、
そう確信していました。
 それは、パウロバルナバといった、他の弟子たちも同様でした。

 次回に続きます。

 

 (2024年4月3日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

使徒会議の意義(2)

前回に引き続き、新約聖書にある使徒会議についての解説です。

 

 3.使徒会議の背景(続き)


 前回は、使徒会議の開かれた背景について、少し解説をしました。
 そこで今回からは、さらに解説を進めたいと思います。

 

 「さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに『あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない』と、説いていた。」
 (使徒行伝15章1節)

 

 ここに、前回解説した割礼が、出てきますね。
 つまり異邦人(ユダヤ人ではない人々)も、ユダヤ人と同様にこの儀式を受けなければ、キリスト教に入るべきではない。
 当時はそのように主張する人々が、いたようです。

 

 「そこで、パウロバルナバと彼らの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じたので、パウロバルナバそのほか数人の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たちと、この問題について協議することになった。」
 (使徒行伝15章2節)

 

 ここでパウロバルナバとは、キリスト教の形成期に大きな働きをした弟子たちです。
 新約聖書には、キリストの弟子たちが書いた手紙(書簡)が収録されていますが、
なかでも、このパウロによるものが大半を占めています。
 さてパウロたちは、それまでの伝道の経験から、
 人間が救われるのに必要なことは、イエス・キリストを信じる信仰であって、
旧約聖書の)戒律を字義通り守ることではないという確信を、持っていました。
 そこで彼らは他の弟子たちと、使徒や長老たちのいるエルサレム
この問題について議論することになります。

 次回に続きます。

 

 (2024年3月31日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)