聖書の読み方

メルマガのバックナンバーを掲載してます 更新は毎週水曜日と日曜日です

旧約聖書と新約聖書の関係(その22)

 前回に引き続いて、
旧約聖書と新約聖書の関係について、
解説をします。

 

 24.律法(十戒)のもつ意義
 さて、前回までのメルマガでは、
ユダヤ人キリスト者と、
異邦人キリスト者の間の、
律法に対するアプローチの違いについて、
取り上げました。

 

 ここでユダヤ人キリスト者とは、
元々ユダヤ人で、キリスト教に改宗した人達。
 一方、異邦人キリスト者とは、
異邦人(ユダヤ人ではない者)で、
キリスト教へと入った人達のことを指します。

 そして新約聖書では、
ユダヤ人キリスト者は律法を守るべきで、
異邦人キリスト者は、
律法の戒律に拘泥する必要はないのだと、
みなしているのではないか?

 

 というのが、
前回までのメルマガの主題でした。

 ですが、そう考えると、
一つ疑問が浮かんでくるんですね。

 それは、(前回も指摘したように)
異邦人キリスト者は、
旧約聖書の律法をないがしろにしてよいのかという、
そんな問題です。

 それでは、この問題について、
もう少し考えてみたいと思います。

 

 さて、ここまでの解説でも、
強調してきましたが、
キリスト教は本来、
旧約聖書の宗教である、
ユダヤ教から派生した宗教です。

 だから当然、
旧約聖書の律法もまた、
キリスト教は継承しているんですね。

 ですがキリスト教では、
異邦人キリスト者については、
ユダヤ教の戒律である、
割礼などを守ることを、
要求しませんでした。
 これが、少し前に解説した、
エルサレム会議の決定だったんです。

 

 そして、これはキリスト教が、
ユダヤ教を母胎としつつも、
そこから独自の発展をする上で分岐点となった、
そんな決定でした。

 だから、もし異邦人もユダヤ人と同様に、
律法の規定を守れと要求していれば、
キリスト教は今日のような、
世界宗教にはならなかったと私は思います。

 あまりに参入障壁が、
大きくなりますからね。

 

 ですが、これは新約聖書の時代の、
イエスの弟子たちが、
恣意的に、律法を異邦人には、
押し付けない事を、
選択したのではありません。

 むしろ、旧約聖書のなかには、
すでに新約の思想が現れていて、
それをイエスや弟子たちは、
正当に継承して展開したというのが、
キリスト教の立場なんです。

 

 では話を戻しますが、
では、異邦人キリスト者は、
もはや(旧約聖書の)律法を守らなくても、
良いのでしょうか?

 それは、イエスでもあり、
ノーでもあります。

 まずイエスというのは、
新約聖書ではイエス・キリストが人間の罪を贖ったゆえに、
もはや、旧約時代のように、
動物の犠牲や儀式などは、
必要ないと考えています。

 

 また、異邦人キリスト者に対して、
(ユダヤ人となるための)、
割礼の儀式も必要はないと、
いっています。
 これは、律法を守らなくてよいという、
考え方になりますね。

 ですが半分はノーというのは、
異邦人キリスト者は、
律法の中の十戒を守る必要は、
あるからです。

 

 ここで十戒というのは、

 「あなたは殺してはならない。」
 (同20章13節)
 
 とか、

 「あなたは姦淫してはならない。」
 (同20章14節)

 といった、あの戒めのことですね。

 そして、新約聖書でもまた、
十戒というのは、
重要なものとみなされています。

 

 例えば、ヤコブの手紙という文書には、

 「たとえば、『姦淫するな』と言われたかたは、また『殺すな』とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。」
 (ヤコブの手紙2章11節〜12節)

 と書いてあります。
 これは実際の言葉を引用しつつ、
十戒をユダヤ人のみならず、
異邦人キリスト者にとっても、
重要な意義があると、
みなしている箇所なんですね。

 

 そして、ここでヤコブが、
「自由の律法」という言葉を使っているのもまた、
印象的です。

 それは、キリスト教の信仰を持った人は、
嫌々と隷属的にではなく、
むしろ自発的に、
律法を守るようになり、
また、そのように変わっていくことを、
暗示しているからです。

 

 ですので、こうした箇所を読むと、
新約聖書もまた、
旧約聖書の律法(十戒)を、
重視していることが、
よくわかるのではないかと、
私は思うんです。

 

 次回に続きます。

 

 発行人 neutral613

 

 (2026年10月7日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

 

 

 

旧約聖書と新約聖書の関係(その21)

 前回に引き続き、
旧約聖書と新約聖書の関係について、
皆さんに解説します。

 

 23.パウロのエルサレムへの旅(使徒行伝21章)の続き
 さて、前回のメルマガでは、
使徒パウロが、
エルサレム教会に行った箇所を、
皆さんに紹介しました。

 では、ここまでの内容を、
少し整理してみます。

 

 さて、エルサレム教会に行ったパウロは、
この教会の指導者であったヤコブから、
請願を行う人たちの、
費用を負担してくれと頼まれます。

 これは、パウロが律法、
つまりユダヤ人としての戒律を、
おろそかにはしてはいない事を、
周囲のユダヤ人に示すためでした。

 

 さて、ここで重要なことは、
エルサレム教会の指導者であったヤコブは、
異邦人のキリスト者に対して、
律法の規定を守るべきとは、
言っていないという事です。

 彼は、前回引用した箇所に続いて、
次のように語っています。

 「異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある。」 
 (使徒行伝21章25節)

 

 こちらですね。
 ここでは、少し前のメルマガでも取り上げた、
エルサレム会議をもとに、
異邦人のクリスチャンは、
律法の規定にこだわる必要はないと、
確認しています。

 

 では、ここまでの解説で、
何が言いたいのかといいますと、
新約聖書では、
ユダヤ人キリスト者(ユダヤ人でキリスト教へ改宗した人物)は、
ユダヤ人として律法を守るべきであるが、
異邦人キリスト者(異邦人でキリスト教へ改宗した人物)は、
そうした律法の規定に拘泥する必要はないと、
言っているのでないかということなんです。

 

 これが言いたいがために、
ここまでテモテの話(使徒行伝16章)や、
エルサレム教会の話(使徒行伝21章)を、
取り上げてきたんですね。

 これが、私が伝えたかった事なんです。
(少し、分かりにかったかもしれませんが)

 

 ですが、ここでもまた、
一つの疑問が浮かびます。
 それは異邦人キリスト者は、
もはや律法の教えを、
ないがしろにしても良いのかという、
そんな問題です。

 彼らは(私もその一人ですが)
何の基準もなしに、
好き勝手な生き方をしてもよいのでしょうか?

 もちろん、そうではありませんよね。

 

 では、次回以降のメルマガでは、
この問題について、
詳しく取り上げてみたいと思います。

 

 次回に続きます。

 

 発行人 neutral613

 

 (2026年10月4日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

 

 

 

旧約聖書と新約聖書の関係(その20)

 前回に引き続いて、
旧約聖書と新約聖書の関係について、
皆さんに解説をします。

 

 22.パウロのエルサレムへの旅(使徒行伝21章)
 さて、前回のメルマガで取り上げたのは、
使徒行伝の16章に出てくる、
テモテという人物の箇所でした。

 

 この箇所では、
ユダヤ人がキリスト教の信仰を持った場合、
やはり彼らの戒律、
つまり律法を守ることが大切だということを、
指摘しました。

 そして今回取り上げる、
使徒行伝の21章を読んでみると、
このことが、よりはっきりとするんですね。

 それでは、さっそく解説をいたします。

 

 さて、使徒パウロは3回に渡って、
キリスト教を伝えるため、
大伝道旅行をおこなっています。
 これが、当時のローマ帝国にキリスト教が広がる、
礎となります。
 そして、彼は3回目の伝道旅行の最後に、
エルサレムへと向かうんですね。

 

 そして、彼はエルサレムに着いたときに、
エルサレムの教会にいた、
ヤコブという弟子のもとを訪れます。
 彼はイエス・キリストの実の弟で、
当時はエルサレムの教会の、
指導者となっていました。

 

 そして、パウロは彼らから
歓迎を受けますが、
その際、次のように勧められます。
 
 「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例に従うなと言って、モーセに背くことを教えている、ということである。」
 (使徒行伝21章20節〜21節)

 

 ここですね。
 これは、ここだけ読んでもわかりにくいかもしれません。
 これは簡単にいうと、
パウロがユダヤ人たちに対して、
モーセの律法を捨てるように勧めているという、
誤った噂が流れている。
 そう、書いてあるんですね。

 そこで、そうした誤った噂を、
払拭するために、
彼はあることを勧められます。
 それが、次の箇所に書かれています。

 

 「ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、請願を立てている者が四人いる。この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないないことで、あなたは律法を守って、正しく生活していることが、みんなにわかるであろう。」
 (同21章23節〜24節)

 これも、少し分かりにくいかもしれませんので、
解説を付け加えます。

 さて、旧約聖書のなかには、
ナジル人の請願という規定が存在しました。

 

 このナジル人とは、
特別な請願によって、
神に身を捧げて、聖別している、
そんな人のことです。
 このナジル人についての規定は、
旧約聖書の民数記に記されているんですね。
 (これは民数記の6章1節〜21節)

 そして、パウロがエルサレムの教会に着いた時、
ちょうど、この請願をしようとしていた人たちが、
いたんですね。

 

 そしてこうした請願希望者のための、
必要な費用をパウロが負担してくれと、
ここでは頼まれているんです。

 一体、それは何故でしょうか?

 これは、パウロがそうした費用を、
負担することで、
彼がユダヤ人としての律法を、
きちんと守っているんだと、
周囲のユダヤ人社会に示すためでした。

 

 そうすれば、パウロが律法を軽んじているという噂を、
払拭することができると、
エルサレムの教会の人たちは、
考えたんですね。

 次回に続きます。

 

 発行人 neutral613

 

 (2026年9月30日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

 

 

 

旧約聖書と新約聖書の関係(その19)

 前回に引き続いて、
旧約聖書と新約聖書の関係について、
解説をします。

 

 21.ユダヤ人が改宗した場合(続き)
 さて、前回のメルマガでは、
新約聖書のテモテという弟子について、
取り上げました。

 彼は(新約の中でも最重要な)、
パウロの弟子であり、
また協力者でもあった人物なんです。

 

 そして、前回のメルマガでは、
パウロがこのテモテに、
割礼を受けさせたという聖書の箇所を、
皆さんに紹介しました。

 ですが、これは一見、
これまでのパウロの考え方とは、
矛盾する行為なんですね。


 
 というのは、これまでも強調したように、
パウロは異邦人には、
割礼は受けさせる必要はないと、
主張していたからです。

 これは、彼の終始一貫した、
考え方だったんですね。

 

 そしてこの事は以前取り上げた、
エルサレム会議のなかでも、
はっきりと明言されていました。

 だから、ここでのパウロの行動は、
これまでの彼の主張とは、
矛盾するように思えるんです。

 ここが、問題なんですね。

 

 さて、この箇所で重要なのは、
彼(テモテ)がユダヤ人と異邦人との間に生まれた、
いわばハーフだった事です。

 そして当時は、
父親が非ユダヤ人で、
母親がユダヤ人であれば、
その子供は「ユダヤ人」だと、
みなされていたそうです。
 
 ここが、難しいところなんですね。

 

 それでは、なぜ彼がテモテに、
割礼を命じたのか?

 それはパウロはユダヤ人はあくまで、
律法を守りつつ、
キリストをも信じるべきだと、
思っていたからではないでしょうか?
(つまり、テモテはユダヤ人だと、
彼はみなしていたわけです)

 

 これは次回取り上げる予定の、
使徒行伝の21章を読めば、
さらによく分かると思うんです。

 新約聖書の使徒行伝には、
次のようにあります。

 「パウロはこのテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、まず彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることは、みんな知っていたからである。」
 (使徒行伝16章3節)
 
 これは、前回も引用しましたね。

 

 つまりパウロは、
(テモテに割礼を受けさせることによって)
キリスト教が律法を軽視しているという誤解を、
周囲に与えないようにしたのではないかと、
私は思うんです。

 

 発行人 neutral613

 

 (次回の記事は、こちら)

 

 (2026年9月27日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

 

 

 

旧約聖書と新約聖書の関係(その18)

 前回に引き続いて、
旧約聖書と新約聖書の関係について、
解説をします。

 

 20.ユダヤ人が改宗した場合
 さて、前回に引き続いて、
旧約聖書と新約聖書の関係について、
解説を続けます。
 
 前回の解説では、
もともとユダヤ人ではない人(つまり異邦人)が、
キリスト教に入った場合には、
ユダヤ教徒が行っている、
割礼のような戒律を、
守り切る必要はないということまで、
皆さんに解説をしました。

 

 もっとも、これは今の私達にとっては、
それほど重要な問題では、
無いようにも思えます。

 

 そんなこと、どっちでもいいじゃないか?

 と、皆さんは思われるかもしれません。
 ですが、これは新約聖書が、
何を人間の救いとみなしているかについて、
はっきりさせる上では、
重要な事だったんです。

 

 ですが、そうすると、
これとは別に、
次のような問題は湧き上がるんですね。

 それは、元々ユダヤ人だった人物が、
キリストを信じた場合は、
律法を守らなくてもいいのかという、
そんな問題です。

 

 つまり、彼はキリストを信じつつ、
旧約聖書の律法(例えば割礼など)もまた、
守るべきなのか?
 それとも、キリスト教を信じたのだから、
そういった律法は、
もう守らなくてもいいのか?

 これが、重要な問題となるんです。

 

 ですが残念なことに、
聖書のなかには、
この問題についての直接的な記述は、
ありません。
 ですが、この問題について、
示唆を与えてくれる箇所は、
あるんですね。
 
 それは、使徒行伝の、
16章と21章にあたります。

 

 それでは、まず使徒行伝の16章から、
皆さんに解説したいと思います。

 さて、使徒パウロは、
小アジア(現在のトルコ辺り)の南部の、
ルステラという所に行きます。
 そこで彼は、テモテという青年と、
出会うんですね。

 

 「それから、彼はデルベに行き、次にルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており、ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で、評判のよい人物であった。」
 (使徒行伝16章1節〜2節)

 彼はこれから、パウロの弟子、そして親密な協力者となる、
そんな人物なんです。

 

 そして、パウロはこのテモテを気に入り、
これから彼がしようとしていた、
伝道旅行に彼を同行させようとします。
 そして、彼に割礼を、
受けさせるんですね。

 

 「パウロはこのテモテを連れて行きたかったので、
その地方にいるユダヤ人の手前、まず彼に割礼を受けさせた。
彼の父がギリシア人であることは、みんな知っていたからである。」
 (使徒行伝16章3節)

 これは一見、
矛盾してはいないでしょうか?


 
 さて、前回も取り上げた、
エルサレム会議のなかでは、
割礼を受けなくても、
キリストに対する信仰さえ持てば、
人間は救われることができる。

 だから、異邦人は割礼を受けなくてもよい。
 と結論付けていました。

 

 なのに、ここでパウロは、
異邦人の父親と、ユダヤ人の母親をもつ、
このテモテに対して、
割礼を授けているんですね。
 
 これは、矛盾しているのではないでしょうか?

  次回に続きます。

 

 発行人 neutral613

 

 (2026年9月23日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

 

 

 

旧約聖書と新約聖書の関係(その17)

 前回に引き続いて、
旧約聖書と新約聖書の関係について、
皆さんに解説をします。

 

 19.律法を、どうとらえるべきか(続き)
 前回に引き続き、
新約聖書と、旧約聖書の関係について、
皆さんに解説をします。

 

 さて、前回も取り上げましたが、
初代教会、つまりイエスの直弟子たちが活躍していた頃には、
クリスチャンは旧約聖書の戒律である、
律法をどこまで守るべきなのかが、
大きな問題となっていました。

 それは、無理もないところです。

 

 それまでは、律法を守ることによって、
人間は救われると言われていたのに、
そうではなくて、
むしろ(キリストに対する)信仰によって救われる。
 そう言われても、
なかなか納得できないというのが、
正直な所ではないでしょうか?

 

 ですので当時、教会で中心的な役割を果たしていた、
使徒や長老たちが、
この問題について議論するため、
エルサレムへと集結することになります。
 これは使徒会議、
あるいはエルサレム会議と呼ばれています。

 さて、この会議では律法、
ことに割礼についての取り扱いが、
問題となりました。

 

 ここで割礼とは、
生後8日目の男児の、
男性器の包皮を切り取るという儀式のことなんですね。

 これは、創世記のなかにも記述があり、
ユダヤ人の人たちにとっては、
選民となった印である、
重要なものだったんです。

 

 これを、クリスチャンも守るべきだというのが、
当時の保守的な人達の主張でした。

 さて、新約聖書の使徒行伝には、
この会議の席上で、
キリストの一番弟子であったペテロという人物が、
次のように語る場面が記されています。
 彼は、こんな事を語っているんですね。

 

 「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。」
 (使徒行伝15章7節〜9節)

 ちょっと長いですが、
引用してみました。

 

 さて、ここでペテロは、
異邦人であっても、
ユダヤ人と全く同じように、
キリストに対する信仰によって救われている。
 そこには、何の差別だてもない。
そう、彼は語っているんです。

 そして彼は、
次のように続けます。

 「しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきのあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。」
 (使徒行伝15章10節)
 
 
 彼は律法を守ることによって救われることは、
ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、
不可能であるという事を、
知っていました。
 これは、人間には不可能な事なんですね。

 なのに、自分たちユダヤ人だって、
守りきることのできなかったものを、
なぜ異邦人に押し付けるのか?

 そう、彼は言っているんですね。


 
 ですが、これは決して新約聖書が、
旧約聖書の律法を軽んじているということでは、
はないんですね。

 むしろ新約では、
キリストに対する信仰を持つことによって、
律法が守れるように、
人間が変えられていくのだと、
そんな風に解釈をしているんです。

 

 これはパウロという弟子が、
次のように書いていることで、
分かるのではないでしょうか?
 彼は、次のように書いています。

 「まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。」
 (ローマ人への手紙3章30節)

 

 ここには割礼のある者、
つまりユダヤ人も、
また無割礼の者、つまり異邦人も、
信仰によって義とされる、つまり救われると、
書いています。
 そして、

 「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。」
 (ローマ人への手紙3章31節)

 とも書いてあります。

 

 ここには信仰というのは、
「律法を無効」とするのではなく、
むしろ、「律法を確立」するものなのだと、
主張してあるんですね。

 これが、新約聖書と律法について考える上で、
重要な点なんです。 

 次回に続きます。

 

 発行人 neutral613

 

 (2026年9月20日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)

 

 

 

旧約聖書と新約聖書の関係(その16)

 前回に引き続いて、
旧約聖書と新約聖書の関係について、
皆さんに解説をします。

 

 18.律法をどうとらえるべきか?
 前回に引き続いて、
旧約聖書と新約聖書の関係について、
解説を続けます。

 さて、前々回までのメルマガでは、
私は使徒行伝の8章から、
解説をいたしました。

 

 そこでは厳密にいえば、
律法を守ることのできない、
そんな人たちもまた、
救われることができる、
そんな「新しい契約」の時代へと移行している。
 それを、あの使徒行伝のエピソードは示していたんです。

 

 ですが、そうすると、
新約聖書はこれまでの旧約聖書の教えを、
どのように捉えているのか?
 これが、問題になってくるんです。

 さて、これまでの解説でも、
書いてきましたが、
そもそもキリスト教は、
ユダヤ人の宗教である、
ユダヤ教から派生した宗教です。

 

 だから、本来ユダヤ教の教典である、
旧約聖書もキリスト教では教典として、
採用しているんですね。

 ですが、これまでの解説をご覧の皆さんは、
もしかすると、
疑問を感じているかもしれません。

 

 というのは、旧約聖書の中では、
あれほど(くどいくらい)、
律法を尊守することが強調されてきたにも関わらず、
新約聖書はこの律法を、
ないがしろにしているのではないかという、
そんな疑問です。

 

 さて、新約聖書では、
人間が救われるのは、
キリストによる贖(あがな)いだというのが、
その中心的な主張です。

 人間がおこなう善行、
つまり律法によるのではないんですね。

 

 そしてこうしたことは、
キリスト教が異邦人、
つまりユダヤ人ではない人たちの間に広まるうえで、
とても重要な教えでした。

 ですが、この点が、
イエスの直弟子たちの時代に、
大きな問題となったんです。

 

 というのは、そもそもキリスト教は、
ユダヤ教から派生した宗教です。
 なのに、なぜユダヤ教で主張されている、
律法を守らないのか。
そしてキリスト教徒というのは、
こうした律法をどこまで守るべきか?

 当時、これが大きな問題となったんです。

 

 そして、この問題に対処するために、
当時の教会の指導者であった、
使徒や長老たちを集めて、
この問題について議論するために、
会議を開きます。

 

 これは、使徒会議あるいは、
エルサレム会議と呼ばれていて、
新約聖書の使徒行伝の15章6節〜29節に、
記されているんですね。
 
 次回に続きます。

 

 発行人 neutral613

 

 (2026年9月16日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)