前回に引き続いて、
旧約聖書と新約聖書の関係について、
解説をします。
24.律法(十戒)のもつ意義
さて、前回までのメルマガでは、
ユダヤ人キリスト者と、
異邦人キリスト者の間の、
律法に対するアプローチの違いについて、
取り上げました。
ここでユダヤ人キリスト者とは、
元々ユダヤ人で、キリスト教に改宗した人達。
一方、異邦人キリスト者とは、
異邦人(ユダヤ人ではない者)で、
キリスト教へと入った人達のことを指します。
そして新約聖書では、
ユダヤ人キリスト者は律法を守るべきで、
異邦人キリスト者は、
律法の戒律に拘泥する必要はないのだと、
みなしているのではないか?
というのが、
前回までのメルマガの主題でした。
ですが、そう考えると、
一つ疑問が浮かんでくるんですね。
それは、(前回も指摘したように)
異邦人キリスト者は、
旧約聖書の律法をないがしろにしてよいのかという、
そんな問題です。
それでは、この問題について、
もう少し考えてみたいと思います。
さて、ここまでの解説でも、
強調してきましたが、
キリスト教は本来、
旧約聖書の宗教である、
ユダヤ教から派生した宗教です。
だから当然、
旧約聖書の律法もまた、
キリスト教は継承しているんですね。
ですがキリスト教では、
異邦人キリスト者については、
ユダヤ教の戒律である、
割礼などを守ることを、
要求しませんでした。
これが、少し前に解説した、
エルサレム会議の決定だったんです。
そして、これはキリスト教が、
ユダヤ教を母胎としつつも、
そこから独自の発展をする上で分岐点となった、
そんな決定でした。
だから、もし異邦人もユダヤ人と同様に、
律法の規定を守れと要求していれば、
キリスト教は今日のような、
世界宗教にはならなかったと私は思います。
あまりに参入障壁が、
大きくなりますからね。
ですが、これは新約聖書の時代の、
イエスの弟子たちが、
恣意的に、律法を異邦人には、
押し付けない事を、
選択したのではありません。
むしろ、旧約聖書のなかには、
すでに新約の思想が現れていて、
それをイエスや弟子たちは、
正当に継承して展開したというのが、
キリスト教の立場なんです。
では話を戻しますが、
では、異邦人キリスト者は、
もはや(旧約聖書の)律法を守らなくても、
良いのでしょうか?
それは、イエスでもあり、
ノーでもあります。
まずイエスというのは、
新約聖書ではイエス・キリストが人間の罪を贖ったゆえに、
もはや、旧約時代のように、
動物の犠牲や儀式などは、
必要ないと考えています。
また、異邦人キリスト者に対して、
(ユダヤ人となるための)、
割礼の儀式も必要はないと、
いっています。
これは、律法を守らなくてよいという、
考え方になりますね。
ですが半分はノーというのは、
異邦人キリスト者は、
律法の中の十戒を守る必要は、
あるからです。
ここで十戒というのは、
「あなたは殺してはならない。」
(同20章13節)
とか、
「あなたは姦淫してはならない。」
(同20章14節)
といった、あの戒めのことですね。
そして、新約聖書でもまた、
十戒というのは、
重要なものとみなされています。
例えば、ヤコブの手紙という文書には、
「たとえば、『姦淫するな』と言われたかたは、また『殺すな』とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。」
(ヤコブの手紙2章11節〜12節)
と書いてあります。
これは実際の言葉を引用しつつ、
十戒をユダヤ人のみならず、
異邦人キリスト者にとっても、
重要な意義があると、
みなしている箇所なんですね。
そして、ここでヤコブが、
「自由の律法」という言葉を使っているのもまた、
印象的です。
それは、キリスト教の信仰を持った人は、
嫌々と隷属的にではなく、
むしろ自発的に、
律法を守るようになり、
また、そのように変わっていくことを、
暗示しているからです。
ですので、こうした箇所を読むと、
新約聖書もまた、
旧約聖書の律法(十戒)を、
重視していることが、
よくわかるのではないかと、
私は思うんです。
次回に続きます。
発行人 neutral613
(2026年10月7日まぐまぐ!にて配信)
(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。
聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society
1954,1955,1975,1984,2002)