前回に引き続き、因果応報という考え方の問題についての解説です。
6.新約聖書の場合(1)
さて前回までのメルマガでは、主に旧約聖書から、
因果応報を聖書がどのように捉えているかについて、
解説してきました。
今回からは、新約からこの問題を見てみることにしましょう。
新約聖書の中では、福音書の中に、
この問題について示唆している箇所があります。
それは、ヨハネ福音書にある記事です。
あるとき、イエスが弟子たちと一緒にいた時、
生まれつき目の見えない人物と出会います。
その時、イエスの弟子たちは、彼に次のように尋ねます。
「イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。」
(ヨハネによる福音書9章1節ー2節)
イエスの弟子たちもまた、人間の病気や不幸というのは、当人の罪の結果であって、
それに対する神からの罰なのだ、
そのように考えていたフシがありますね。
これは、因果応報(応報思想)につながる考え方です。
ですがイエスは、彼らに次のように答えています。
「イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。』」
(ヨハネによる福音書9章3節)
この中でイエスは、彼の目が見えないのは、本人が罪を犯したためではなく,
また彼の両親のせいでもない、と明言しています。
こうした応報思想に対しては、
あくまでそうではないと、
彼は言っているようですね。
次回に続きます。
(2024年5月1日まぐまぐ!にて配信)
(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。
聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society
1954,1955,1975,1984,2002)