5.キリスト教にとっての十戒
さて前回は、十戒の内容について簡単に解説しました。
前回解説したとおり、キリスト教とルーツを同じくするユダヤ教は、旧約聖書の戒律を守ることを大切にしています。(もっともユダヤ教の人たちは、旧約聖書という呼び方はしませんが。)
そのような人たちにとって、十戒は当然大切なものだといえますね。
しかし、キリスト教の場合はどうでしょうか? 今度詳しく解説する予定ですが、キリスト教ではユダヤ教のようには旧約聖書の戒律=律法を強調しません。
むしろキリスト教が強調するのは、信仰です。
ではキリスト教にとって、十戒はそれほど重要なものとはいえないのでしょうか?
6.新約聖書と十戒の関係
さて新約聖書を読むと、そこでもやはり十戒は重要だとみなされていることが、うかがえます。
イエスは、山上の垂訓のなかで、
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」
(マタイによる福音書5章17節)
と言っています。ここで「律法と預言者」というのは、旧約聖書全体を指す言葉だと思ってください。
イエスは自分自身の教えは、旧約聖書を破棄するものではなく、むしろそれを完成させるものだとみなしていたようであり、ここには当然十戒の教えも含まれていたことは、疑いないと思います。
「たとえば、『姦淫するな』と言われたかたは、また『殺すな』とも仰せになった。そこで、たとえ姦淫はしなくとも、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。」
(ヤコブの手紙2章11節)
と書いてあります。これは、新約聖書でもクリスチャンが守るべき当然の戒律として、十戒をとらえていたとみなしてよいのではないでしょうか?
旧約聖書と同様に、新約聖書でも十戒は重視されていると言えますね。
次回に続きます。
(2023年8月20日まぐまぐ!にて配信)
(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。
聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society
1954,1955,1975,1984,2002)