(前回の記事は、こちら)
今回も、使徒行伝のエチオピヤの宦官の解説です。
7.エチオピヤ人の宦官の話(2)
前回は使徒行伝8章のエチオピヤ人の、宦官の男性の逸話を紹介しました。
彼はピリポというキリストの弟子から、洗礼(バプテスマ)を受けたのでした。
さらっと読めば、ただそれだけの話です。
ですが、ここにはある重大な事が書かれています。
ここで皆さんに注目していただきたいのが、このエチオピヤ人の高官が宦官(かんがん)だったということです。
宦官、あまり聞き馴染みのない言葉ですね。
宦官とは、一体どんな人たちだったのでしょうか?
宦官とは、宮廷や貴族につかえていた、去勢された男性のことです。
こうした人々は古代オリエントから、ギリシャ、ローマにも存在し、
また中国にも、こうした人々はいたと言われています。
ですが、なぜこうした処置をされなければいけなかったのでしょうか?
これは一説には、権力者の側近として仕える男性が、后との恋愛関係、つまり間男になるのを防ぐ狙いがあったともいわれています。
もしそうなってしまえば、自身の権力をおびやかす存在に、なりますからね。
さて話を戻しますが、この男性は洗礼を受けています。
ひらたく言えば、キリスト教に入ったということです。
これは、別に何の問題もないように思えます。
しかし、これは旧約聖書の律法の観点から見れば、
本来ありえないことなんです。
なぜならユダヤ教では、去勢された男性が、ユダヤ教に入ることを禁止しているからです。
旧約聖書の申命記というところには、次のような規定があります。
「すべて去勢された男子は主の会衆に加わってはならない。」
(申命記23章1節)
ここには明白に「去勢された」男性は、ユダヤ教には入れないと定められています。
ですが新約聖書では、彼はピリポから洗礼を授けられています。
これは、一体何を意味しているのでしょうか?
これは新約時代が、旧約の律法をある意味で、乗り越えていることを、
示している出来事だと言えます。
そして、これはローマの百卒長のエピソードも同様です。
もしキリストに対する信仰があるのなら、外国人(百卒長コルネリオ)であろうが、
もはや律法を(厳密には)守ることはできない宦官であろうと、
誰にだって救われる道がある。
それが、新約の時代の特徴です。
次回に続きます。
(2023年12月13日まぐまぐ!にて配信)
(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。
聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society
1954,1955,1975,1984,2002)