3.ヤコブの勧め
前回のメルマガでも解説をしたように、ヤコブの手紙は特にキリスト教の実践面の勧めが多い手紙です。
特に彼が批判するのは、形だけの信仰、つまり実践=正しい行いの伴わない、空虚な信仰です。
例えば、
「わたしの兄弟たちよ、ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。」
(ヤコブの手紙2章14節)
「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」
(ヤコブの手紙2章17節)
と、このように言っています。
これは、とても自然な主張です。
信心深いというのなら、なによりもまずそれにふさわしい実を結ぶべきである、彼はそう主張します。
4.パウロの教えとの齟齬?
このようにヤコブは、正しい行いを重視します。
そこで彼はある箇所で、次のように言います。
「これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。」
(ヤコブの手紙2章24節)
これは、ヤコブが旧約聖書のアブラハムという人物について語った所で、言っている言葉です。
ですが彼の言っていることは至極もっともで、常識的なのですが、実はある問題があります。
それは彼の主張が、新約聖書の他の箇所、特にパウロの主張と違ったことを言っているように見えることです。
このパウロという人物は、キリスト教の教えを体系的、組織的に解説している人物で、キリストの弟子の中でも、特に重要な人物の中のひとりです。
そのパウロがある所で、次のように言っています。
「わたしたちはこう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」
(ローマ人への手紙3章28節)
彼はこう言っています。
ここで「義とされる」というのは、人間が(神によって)正しい人間だとみなされているという事をさす言葉です。
ひらたく言えば、救われているという意味ですね。
律法というのは、旧約聖書に記されている戒律のことで、この戒律=善行をすることを指しています。
しかしどうでしょうか?
ヤコブは人間が救われるのは、信仰だけではない、むしろ行いが大切だといいます。
それに対しパウロという弟子は、人間が救われるのは、律法の善行を積むことではなく、信仰を持つことだといいます。
この不一致を、どう解釈すべきでしょうか?
次回に続きます。
(2023年11月19日まぐまぐ!にて配信)
(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。
聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society
1954,1955,1975,1984,2002)