聖書の読み方

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キリストの復活と聖書の信仰(12)

 前回に引き続き、聖書の信仰についての解説です。

 

 17.アブラハムとキリスト(3)
 さてパウロは、このアブラハムの信仰と、キリストの復活にはある共通点があるといいます。
 それは、一体なんでしょうか?
 それは両者とも、「本来なら決してありえないことが起こった」という共通点です。
 これは、どういうことでしょうか?
つまり、こういうことです。
 これまでの解説のとおり、アブラハムとサラは、二人とも高齢で、なおかつサラは不妊症でした。(しまいには生理も止まっていた)
 にも関わらず、子供を持つことができた、そう聖書にはあります。

これは、本来ありえることでしょうか?


 否、絶対にありえないことです。
そうですよね。
 キリストの復活も、これと同様です。
 新約聖書によれば、キリストは十字架刑で処刑された後、3日目に死からよみがえって、弟子たち(最初はマグダラのマリアだった)に現れたといいます。
 人間が死からよみがえる、こんなことがありえるでしょうか?
否、本来そんなことは、絶対にありえません。
 
 つまり、だからこそ信じるのです。
 本来アブラハムとサラが子を持つことも、キリストが復活することも、本来なら決してありえないことです。
 その「ありえない」事柄でも、神ならできたのだ。
そう信じるのが、復活を信じるということの、意義だと思います。
 この時、「人間が死からよみがえるなどありえない。」という常識は、あくまで重要です。
 この常識を「打ち捨てて」信仰を持てというのであれば、それは信仰というより、むしろ狂信だと思います。
 むしろ(なんと言えばいいのでしょうか)「人間が死からよみがえるわけなどない」という常識を持ちつつも、それを一旦「乗り越える」のが信仰だ、そう新約聖書は教えているのではないでしょうか?
 パウロは、同じローマ人への手紙の中で、次のように言っています。

 

 「しかし、『義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。」
 (ローマ人への手紙4章23節ー24節)

 

 これが、復活を信じるということについての、新約聖書の解釈となります。
 そしてこれは、もはや子供など持てるはずなどなかった、アブラハムとサラの信仰、つまり「アブラハムの信仰」と、キリストの復活を信じるという、キリスト教の信仰とが、いわば直結していることを、示しているというわけです。

 次回に続きます。

 

 (2024年1月28日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)