(前回の記事は、こちら)
今回は、このテーマの最後の解説です。
8.ふたつの話の意味すること
さてこれまでのメルマガでは、使徒行伝の2つの話、つまりエチオピヤ人の宦官の話と、
百卒長コルネリオの解説をしてきました。
いかがでしたか?
このふたつの話は、どちらもさらっと読んでしまいがちなエピソードです。
私自身、若い頃から聖書を読んできましたが、
最初に使徒行伝を読んだ時は、それほど気にとめていませんでした。
ただのいいエピソードにしか思えなかったからです。
しかしこの宦官の男性と、コルネリオの話は、よく読むと、ある共通点があります。
それは両者とも、旧約聖書の律法の観点からは、救われることはできないとみなされていた人たちだということです。
コルネリオはローマ人なので、ユダヤ教の律法を、守っていた人とは言えません。
そして前回解説したとおり、宦官の男性は、律法を厳密にはもはや守ることはできない人物です。
(去勢されている人物ですからね)
にもかかわらず、この二人が救われたということは、
何を意味しているのでしょうか?
それは、新約が旧約を、(ある意味では)乗り越えた事を意味しています。
そして、ここが重要なことですが、新約聖書は旧約の考え方を、ただ否定しているのではなく、
あくまでその基本的な考え方を継承した上で、それをある面では乗り越えているということにあります。
今回の出来事は、その事を如実にあらわしている、
私はそのように思っています。
使徒行伝の解説は、今回で終わりです。
次回からは、キリストの復活について解説をします。
(2023年12月17日まぐまぐ!にて配信)
(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。
聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society
1954,1955,1975,1984,2002)