聖書の読み方

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義認(7)

 前回に続き、義認について解説します。

 

 7.律法のもとではなく、恵みのもとにあるとは?
 前回,人間の罪というのは、キリストのあがないによって許され、キリストを信じる人間は、もはや罪を裁かれない状態へと移行しているのだと解説をしました。
 
 「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」
 (ローマ人への手紙6章11節)
 
 「罪に対して死ぬ」というのは、罪に対する裁きから自由である、つまり裁かれないということです。これは、今まで犯した罪のみならず、これから犯すであろう罪についても、裁かれたりはしないということです。
 しかし、罪が許された以上、人間は何をやっても良いのでしょうか?
 もう好き勝手に生きてもいいじゃないか、そういう風になりはしないでしょうか?

 

 8.義とされた人間こそ、正しくあることが要求されている
 これについては、新約聖書には次のように書いてあります。

 「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。」
 (ローマ人への手紙6章15節)
 
 また、少し前の第3章には、次のように書いてあります。

 「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。」
 (ローマ人への手紙3章31節)
 
 たとえ「恵みの下」、つまりもはや神から罪を裁かれない状態にあるからといって、「わたしたちは、罪を犯す」べきではありません。
 「断じてそうではない」、パウロはそう強調します。
 だから「信仰のゆえに、律法を無効にする」のではなく、むしろキリストに対する信仰を持つことによって、かえって人間は律法の行い=正しい生き方をなせるように変わっていく、それこそが信仰を持つということの意義だといえます。

 

 (次回の記事は、こちら

 

 (2023年6月28日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)