前回に引き続き、義認について解説します。
6.キリストによるあがない
今まで、ローマ人への手紙の3章21節から24節までを、解説してきました。また前回までの解説で、人間が救われるためには、律法(これは旧約聖書にある戒律)を守ることではなく、信仰を持つことが必要であると、書いてきました。
24節には、「キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」とあります。
これが重要な点です。
このキリストに対する信仰によって、義=罪を犯していない状態とみなされるというのが、重要な点です。
これは、どういうことでしょうか?
さて、新約聖書ではナザレのイエスという人物が重要なのですが、彼は30代の時に、当時の権力者や宗教家の手によって、
ローマ帝国の処刑法だった十字架刑という方法で、処刑されてしまいます。
この歴史的な出来事を、新約聖書では、実際は神の子であったイエスが、人間の罪をあがなうために、身代わりになったと解釈します。
「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んでくださったのである。」
(ローマ人への手紙5章6節)
また、次のように続きます。
「正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」
(ローマ人への手紙5章7節ー8節)
これは、人間の罪はキリストのあがないによって、すべて許されている、そう主張しています。
これはいつ許されるのでしょうか?それはすでに許されているということです。人間の罪は、すでにみな許されていると言うことです。
次回に続きます。
(2023年6月25日まぐまぐ!にて配信)
(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。
聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society
1954,1955,1975,1984,2002)