前回に引き続き、律法主義がもたらす弊害について、
その問題を解説します。
4.理由その1 人間が律法の奴隷となってしまうから
さて前回のメルマガでは、律法主義には、
3つの弊害があって、
その弊害がキリスト教にとって、いわば致命的な問題と
なりえることまで、解説しました。
では今回のメルマガでは、そのなかの第一の理由である、
「人間が、律法の奴隷となってしまうから」
について、解説をします。
繰り返しになってしまうんですが、
律法というのは、旧約聖書に記されている、
様々な戒律のことを指す言葉です。
有名なところでは、十戒なんかがそれに当たりますね。
「あなたは盗んではならない。」
(出エジプト記20章15節)
「あなたは寄留の外国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。」
(出エジプト記22章21節)
というような、こうした規定もあります。
こうした旧約聖書の律法を、偏見のない目で読むと、
もっともなことが書いてあるなと、
感じることが、少なくありません。
確かに、今の時代にそのまま運用するのは、
ちょっとしんどい規定も、ありますが。
さて律法主義のというのは、つまるところ、
この律法を守ることによって、
救われようとするスタンスのことです。
つまり、人間が善行を積んで、
それにとって救済されようとする、
そういった考え方のことですね。
さて私はクリスチャンなんですが、
正直なところ、こうした律法の行いによって、
救われようとする生き方の何が問題なのか、
正直、よくわかりませんでした。
みなさんもご承知かもしれませんが、
キリスト教では、「信仰」を強調します。
イエス・キリストに対する信仰を、なにより重視してるんですね。
しかし信仰といっても、所詮は人間の内面の問題です。
本当にその人が信仰をもっているのか、それとも信仰を持ったふりをしているのか、
(つまり偽善者ですね。教会には、こういう偽善者が、わんさかいます。)
本当のところは、誰にもわかりません。
そんなあやふやな、「信仰」を強調するくらいなら、
善行を積んで救われようとする生き方の方が、
よっぽどまともだし、人間として健全ではないか?
そう感じていた時期が、私にはありました。
しかし、この律法によって救われようとする生き方には、
ある落とし穴があります。
それについて、次回解説をしていきましょう。
(次回の記事は、こちら)
(2024年10月9日まぐまぐ!にて配信)
(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。
聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society
1954,1955,1975,1984,2002)