前回に引き続き、律法主義がもたらす弊害について、
解説します。
16.人の子は、安息日の主である
さて今回のメルマガでは、
律法主義が、テーマでした。
それでここまで、主にマタイによる福音書の12章1節〜8節から、
解説をして参りました。
今回取り上げるのは、この箇所の最後の言葉である、
「『人の子は安息日の主である』。」
(マタイによる福音書12章8節)
です。
さて、ここでイエスは、「人の子」という言葉を、
使っていますね。
この「人の子」とは、もともと単純に
「人間」のことを、指す言葉です。
ですが新約聖書の中で、イエスが「人の子」というときは、
自分自身のことを、指すときに使う言葉です。
つまり、「私は」の代わりに、
「人の子は」と、言っているわけですね。
つまりこの場合、「人の子=私」という意味だと、
思って差し支えないです。
では先程の言葉に戻ります。
イエスは、「人の子(私)は、安息日の主」だと、
言ってますね。
これは、一体どういう意味でしょうか?
つまりイエスは、私自身が、
安息日に何をすべきか、あるいは何をすべきではないかを、
判断する主体であって、
パリサイ派の人々のように、
ただ律法に杓子定規に従う、
あたかも奴隷のように律法に従う、
そんな存在ではないんだ。
そう言いたいがために、
自分が「安息日の主」だと、宣言しているんだと、
考えることができます。
すると、次のような疑問が、
思い浮かびます。
それは、この「安息日の主」というのは、
単にイエスだけなのか。
他の人間は、これには当てはまらないのか?
そういう疑問を、感じるわけですね。
それについては、私はこう思います。
ここでいう「安息日の主」とは、単にイエス・キリストのことだけを、
指しているのでは、ありません。
むしろ、イエスを信じている者は、
皆がキリストと同様に、「安息日の主」であって、
律法の一字一句に拘泥する、いわば奴隷のように、
律法に従わなければならない存在ではなく、
むしろ一人ひとりが、律法の規定を主体的に判断し、
何が正しいのか、そうではないのかを、
自分で判断して、従っていく。
そんな権威を、持っているということです。
これがイエスが言う「安息日の主」の、意味だと、
私は思うんですよね。
そして、そうした自発的な態度こそ、
律法に対する正しいアプローチであって、
人間は、そのような「自由」を持ち合わせているんだ。
それこそがイエスが、伝えたいことなのではないでしょうか?
そしてそのように、自由な律法を抱く生き方こそ、
真に律法を守っている人間の生き方なのだ。
そう、この箇所でイエスは語っているのでは、
ないでしょうか?
次回に続きます。
(2024年11月20日まぐまぐ!にて配信)
(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。
聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society
1954,1955,1975,1984,2002)