聖書の読み方

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旧約聖書のヨブ記が問いかけるもの(その12)

 前回に引き続いて、
旧約聖書ヨブ記について、
解説をします。

 

 13.再びヨブの嘆き
 さて、前回のメルマガでは、
ヨブ記の第8章から、
彼の友人の一人である、
ビルダデが語った言葉について、
皆さんに解説いたしました。

 

 彼の言い分というのは、
それまでに解説をした、
エリパズよりも直截に、
神が正しい人間を罪とみなすことはないこと、
そして、ヨブの子供達の不幸は、
彼ら自身の罪の結果なのだろうと、
断言していました。

 もっとも、これは、
子供を失ったヨブに対して、
語るべき言葉とは、
言えませんでしたね。

 

 さて、今回解説する9章でも、
以前に解説した箇所と同様に、
ヨブの嘆きの言葉が続きます。

「ヨブは答えて言った、
 『まことにわたしは、その事の、
 そのとおりであることを知っている。
 しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。』」
 (ヨブ記9章1節〜2節)

 

 君たち=ヨブの友人の言っていることぐらい、
私にだって分かっている。

 「たといわたしは正しくとも、
  わたしの口はわたしを罪ある者とする。
  たといわたしは罪がなくとも、
  彼はわたしを曲がった者とする。」
 (同9章20節)

 

 さて、ここでは、
「わたしの口はわたしを罪ある者とする」とあります。
 ですが、これは正しくは
「彼(神)の口はわたしを罪ある者とする」と、
解釈したほうが、良いそうです。
 ちなみに、これは原文では、
単に「口が・・・」と書いてあるだけみたいです。

 

 つまり、たとえヨブは正しくても、
神は、私=ヨブのことを、
罪のある裁かれる人間だと、
みなしている。
 そんな、彼の嘆きが、
ここに記されているんですね。

 

 続いて、彼は次のようにも語っています。

「わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない、
 わたしは自分の命をいとう、
 皆同一である。それゆえ、わたしは言う、
 『彼は罪のない者と、悪しき者とを、
 共に滅ぼされるのだ。』と。
 災がにわかに人を殺すようなことがあると、
 彼は罪のない者の苦難をあざ笑われる。
 世は悪人の手に渡されてある。
 彼はその裁判人の顔をおおわれる。
 もし彼でなければ、これはだれのしわざか。」
 (同9章21節〜24節)

 このあたりは、
彼は鋭いところをついていると、
思います。
 「皆同一である。」
 つまり、
「彼=神は、罪のない者も悪人も、
おなじように滅ぼすだけだ」。


 
 そんなふうに、しているに違いない。
そして、正しい人間が苦しんでいると、
神はそんな人間を、
「あざ笑っている」に違いない。

 そんな風に、彼には感じられるんですね。
 これは彼の偽らざる、
感想なのではないでしょうか?

 

 そして、順番は前後しますが、
次の言葉なんかは、
彼の悩みと葛藤が、
よく現れている言葉では、
ないでしょうか?

 「たといわたしは正しくても答えることができない。
  わたしを責められる者に、
  あわれみを請わなければならない。」
 (同9章15節)

 この言葉にはヨブの葛藤というか、
ジレンマというのが、
はっきりと語られているように、
私には思えます。


 聖書の中(これは新約聖書からですが)には、

「泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか。」
 (ヤコブの手紙3章11節)

 という言葉があります。
 つまり、善と悪が同じ所から、
でるわけはない。
 そんな意味の言葉なんですね。
 ですが、ヨブにとっての神というのは、
言ってみれば、「善と悪が同じ所から出る」
そんな存在に映っているんです。


  つまり、ヨブにとっては、
神というのは、自分を苦しめ、そして災いをもたらす存在であって、
ヨブは、そんな神を信じなければならない、
もっと言わせてもらうと、
愛さなかればならない。
彼はそんな状態なんですね。
 そして私が思うに、
そこにこそヨブの最大の葛藤、
あるいはジレンマがあるんだと、
言えるんです。

 次回に続きます。

 

 発行人 neutral613

 

 (2026年1月11日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)