13.再びヨブの嘆き
さて、前回のメルマガでは、
ヨブ記の第8章から、
彼の友人の一人である、
ビルダデが語った言葉について、
皆さんに解説いたしました。
彼の言い分というのは、
それまでに解説をした、
エリパズよりも直截に、
神が正しい人間を罪とみなすことはないこと、
そして、ヨブの子供達の不幸は、
彼ら自身の罪の結果なのだろうと、
断言していました。
もっとも、これは、
子供を失ったヨブに対して、
語るべき言葉とは、
言えませんでしたね。
さて、今回解説する9章でも、
以前に解説した箇所と同様に、
ヨブの嘆きの言葉が続きます。
「ヨブは答えて言った、
『まことにわたしは、その事の、
そのとおりであることを知っている。
しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。』」
(ヨブ記9章1節〜2節)
君たち=ヨブの友人の言っていることぐらい、
私にだって分かっている。
「たといわたしは正しくとも、
わたしの口はわたしを罪ある者とする。
たといわたしは罪がなくとも、
彼はわたしを曲がった者とする。」
(同9章20節)
さて、ここでは、
「わたしの口はわたしを罪ある者とする」とあります。
ですが、これは正しくは
「彼(神)の口はわたしを罪ある者とする」と、
解釈したほうが、良いそうです。
ちなみに、これは原文では、
単に「口が・・・」と書いてあるだけみたいです。
つまり、たとえヨブは正しくても、
神は、私=ヨブのことを、
罪のある裁かれる人間だと、
みなしている。
そんな、彼の嘆きが、
ここに記されているんですね。
続いて、彼は次のようにも語っています。
「わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない、
わたしは自分の命をいとう、
皆同一である。それゆえ、わたしは言う、
『彼は罪のない者と、悪しき者とを、
共に滅ぼされるのだ。』と。
災がにわかに人を殺すようなことがあると、
彼は罪のない者の苦難をあざ笑われる。
世は悪人の手に渡されてある。
彼はその裁判人の顔をおおわれる。
もし彼でなければ、これはだれのしわざか。」
(同9章21節〜24節)
このあたりは、
彼は鋭いところをついていると、
思います。
「皆同一である。」
つまり、
「彼=神は、罪のない者も悪人も、
おなじように滅ぼすだけだ」。
そんなふうに、しているに違いない。
そして、正しい人間が苦しんでいると、
神はそんな人間を、
「あざ笑っている」に違いない。
そんな風に、彼には感じられるんですね。
これは彼の偽らざる、
感想なのではないでしょうか?
そして、順番は前後しますが、
次の言葉なんかは、
彼の悩みと葛藤が、
よく現れている言葉では、
ないでしょうか?
「たといわたしは正しくても答えることができない。
わたしを責められる者に、
あわれみを請わなければならない。」
(同9章15節)
この言葉にはヨブの葛藤というか、
ジレンマというのが、
はっきりと語られているように、
私には思えます。
聖書の中(これは新約聖書からですが)には、
「泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか。」
(ヤコブの手紙3章11節)
という言葉があります。
つまり、善と悪が同じ所から、
でるわけはない。
そんな意味の言葉なんですね。
ですが、ヨブにとっての神というのは、
言ってみれば、「善と悪が同じ所から出る」
そんな存在に映っているんです。
つまり、ヨブにとっては、
神というのは、自分を苦しめ、そして災いをもたらす存在であって、
ヨブは、そんな神を信じなければならない、
もっと言わせてもらうと、
愛さなかればならない。
彼はそんな状態なんですね。
そして私が思うに、
そこにこそヨブの最大の葛藤、
あるいはジレンマがあるんだと、
言えるんです。
次回に続きます。
発行人 neutral613
(2026年1月11日まぐまぐ!にて配信)
(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。
聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society
1954,1955,1975,1984,2002)