聖書の読み方

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旧約聖書のヨブ記が問いかけるもの(その7)

 前回に引き続いて、
旧約聖書ヨブ記について、
解説します。

 

 8.ヨブの嘆き
 さて、前回までのメルマガでは、
ヨブ記の主人公である、
義人ヨブのひととなり、
そして、天上における会議の様子と、
ヨブに襲いかかった様々な苦難、
そして悲劇について、
皆さんに解説してきました。

 

 そして、今回からは、
これまでとは雰囲気が変わって、
ヨブと、そして彼の3人の友人たちとの間で、
繰り広げられた対話、あるいは論争の、
そんな場面へと変わります。

 

 さて、前回の最後に解説した、
2章の11節〜13節では、
彼の3人の友人である、
エリパズ、ビルダデ、ゾパルが、
彼のもとを訪れたことが、
記されていました。
 そして彼らは、
ヨブの姿のあまりの変わりように、
もはや返す言葉さえ、
失っていました。

 

 そして、今回から解説する、
3章〜41章までの部分が、
言ってみればヨブ記の本題にあたります。

 ここからヨブ記の中心的な主題へと、
入っていくんですね。

 

 ここまでの箇所では、
ヨブは様々な苦難に対して、
気丈に耐えていました。

 そして、今回解説する3章では、
彼の「自分の生まれた日」に対する、
呪いの言葉から始まるんです。

 

 「わたしの生まれた日は滅びうせよ。
  『男の子が、胎にやどった』と言った夜も、
  そのようになれ。
  その日は暗くなるように。
  神が上からこれを顧みられないように。
  光がこれを照らさないように。
  やみと暗黒がこれを取りもどすように。
  雲が、その上にとどまるように。
  日を暗くする者が、これを脅かすように。」
 (ヨブ記3章2節〜5節)

 

 ここに記された彼の心情、
彼の言わんとする所は、
私達にも、よくわかるのではないでしょうか?

 なんで、自分は生まれてきたのだろう?
 こんな苦しい目に会わないといけないのなら、
いっそのこと、生まれてこないほうが、
マシだった。

 これは私達の人生でも、
一回や2回(ひょっとしたらもっと)は、
そんな風に感じたことが、
あったはずです。

 

 「なにゆえ、悩む者に光を賜わい、
  心の苦しむ者に命を賜わったのか。
  このような人は死を望んでも来ない。
  これを求めるのは隠れた宝を、
  掘るよりも、はなはだしい。
  彼らは墓を見いだすとき、
  非常に喜び楽しむのだ。」
 (同3章20節〜22節)

 この言葉なんかは、
3人の友人に対してというよりは、
むしろ神に対して訴えているような、
そんな叫びですよね。

 

 そして、順番は前後しますが、
彼は次のようにも語っています。

 「なにゆえ、わたしは人知れずおりる胎児のごとく、
  光を見ないみどりごのようでなかったのか。
  かしこでは悪人も、あばれることをやめ、  
  うみ疲れた者も、休みを得、
  捕らわれ人も共に安らかにおり、
  追い使う者の声も聞かれない。
  小さい者も大きい者もそこにおり、
  奴隷も、その主人から解き放たれる。」
  (同3章16節〜19節)

 「光を見ないみどりご」、
つまり流産でなくなる胎児の方が、
自分よりもまだ幸福である。

 

 そう、彼は言っているんですね。
 そして、かしこ(死後の世界)のほうが、
むしろ自分自身にとって、
安心できる、そんな場所だ。
 彼は、そうも語っています。

 「わたしは安らかでなく、またおだやかでない。
  わたしは休みを得ない。ただ悩みのみが来る。」
  (同3章26節)

 彼は、単に肉体的に苦しんでるだけではなく、
精神的にも、八方塞がりの状態へと、
陥っているんですね。

 次回に続きます。

 

 発行人 neutral613

 

 (2025年2月24日まぐまぐ!にて配信)

 

(このブログでは、日本聖書協会発行の口語訳を引用しています。

聖書 口語訳: ©日本聖書協会 Japan Bible Society

        1954,1955,1975,1984,2002)